まだ「いじめ」という言葉がなかった時代
中学生の頃の私は、いわゆる「いじめられやすい」グループに属する生徒だった。人付き合いが苦手で、体型もふっくらしていた。クラスの人気者になれないだけならまだしも、運悪くその人気者の反感を買ってしまったのだ。
今となっては笑い話だが、当時の日常は本当に苦痛だった。机の中をひっくり返されるのは基本で、悪ふざけで蜂に刺されるよう仕向けられたことさえある。まさに荒唐無稽な青春のワンシーンだった。
まだ「いじめ」という言葉が定着していなかったあの頃、虐げられても、どう助けを求めればいいのかさえ分からなかった。大人たちはただ「お前が弱いからだ」「もっと強くなれ」と言うだけで、こうした「些細な問題」は自分で解決するしかなかった。
だから、私は心を閉ざすことを選んだ。

921の夜、イヤホンの中の周蕙を抱きしめて
13歳のあの日、私は部屋に鍵をかけ、イヤホンの世界へと逃げ込んだ。数えきれないほどの孤独な時間を支えてくれたのは、周蕙のファーストアルバムだった。彼女の歌声は優しい結界のように、外の世界の悪意を遮断してくれた。
「私の惨めさを、あなたには知られたくない」。
その後、南投で921大地震(台湾中部大地震)が起きた。南投出身の私にとって、あの天変地異の恐怖は今も忘れられない。それからの夜、私は明かりをつけたままでないと眠れなくなってしまった。唯一の安心感は、懐に抱えた小さなラジオと、そこから流れる周蕙の歌声だけだった。
父は私が毎日部屋に鍵をかけて引きこもっていることに腹を立てていたが、それが当時、私が唯一慰めを得られる方法だったことを彼は知らなかった。その歌声は、長く暗く閉ざされた時間を、確かに私と共に歩んでくれたのだ。
「ありがとう」を言うのは、人として当たり前の礼儀だ
かつて私は無邪気にもこう思った。もし彼女に直接「ありがとう」と言えたなら、今夜の星空はどんなに美しいだろうか、と。
そこで私は意を決してラジオの前に張り付き、今の若者には想像もつかないような執念で、ラジオ番組の生放送に電話をかけ続けた。指は痛み、勉強なんて手につかなかったけれど、どうしても周蕙にお礼が言いたかったのだ。
そして、奇跡的に電話が繋がった。
電話口に出たスタッフは、私がどもりながら「周蕙にお礼が言いたい」と伝えるのを聞くと、単なる暇つぶしの悪戯だと思ったのか、何も言わずに電話を切った。
ツー、ツー、ツー……
その後のことは、あまり覚えていない。日常は変わらず過ぎていったが、私はほんの少しだけ、無理やりにでも強くならざるを得なかったようだ。そして周蕙もその後、音楽シーンのどこかへ消えてしまったように思えた。数年の間、彼女の痕跡は、私が時折無意識に口ずさむ一節、二節の歌詞だけになっていた。
でも不思議なもので、たった一節だけでも、心の奥底にある青春の辛さと優しさを呼び起こすには十分だった。
世界中が敵だと感じていたあの年頃、彼女は私のことを全く知らないけれど、その歌声だけは唯一、私に優しくしてくれる友人だったのだ。
彼女の活躍の中に、自分の成長を見る
ついにここ数年、再びスクリーンで彼女の姿を見かけるようになった。より多くの自信と物語を携えて、このステージに戻ってきたのだ。
彼女の活躍を見ていると、同時に自分自身の成長も見えてくるような気がした。かつて蜂に刺され、電話を切られた少年も、なんとかそれなりに生きてこられた。暗闇の中で必死に光を探してもがいたあの時間は、無駄ではなかったのだ。
どうやら、ある種の歌声というものは、あなたと一緒に成長していくらしい。自分がより良くなった時、ふと振り返れば、彼女もまたそこで輝いている。
「かつてあなたに知られたくないと思っていたことも、自分自身への告解を終えた今、すべては今夜の美しい星の光となった」

私も子供の頃、似たような経験(カツアゲ)があったけど、運よく助けてもらえて、それからその人のことを好きになっちゃったんだよね??
それって恩を仇で返してるじゃん!
本当に恩知らずすぎるでしょ。